午前1時45分。東京都港区のとあるマンホールの蓋が、音もなく開いた。
オレンジ色の作業服を着た4人の男たちが、次々と地下へ降りていく。彼らの目的地は、地下40メートル。東京の下水道幹線——直径3メートルを超える巨大なコンクリートトンネルだ。
INFRA HEROES編集部は、首都圏下水道メンテナンスを手がける株式会社アンダーグラウンドの作業チームに72時間密着した。この街の「見えない血管」を守る男たちのリアルを報告する。
23:00 —— 出発前のミーティング
品川区にある同社の事務所。終電が近い時間帯に、作業員たちが集まり始める。リーダーの高橋義男(52歳)は、大型モニターに映った下水道の図面を指しながら説明を始めた。
「今夜のターゲットは港区芝浦エリアの幹線。築48年。前回の点検で側壁にクラックが確認されている。今回は詳細調査と、必要に応じて応急補修を行う。」
作業員一人ひとりが確認するのは、酸素濃度計、硫化水素検知器、無線機、ヘッドライト、安全帯。装備の総重量は約15キロ。これを背負って、ハシゴで40メートル下の世界に降りるのだ。
「地上では誰も気づかない。でも、この下を毎日何万トンもの水が流れている。止まったら東京は1日で終わる。」—— チームリーダー 高橋義男
01:45 —— 地下40メートルへの降下
マンホールを開けた瞬間、独特の臭気が立ち上る。慣れていない人間なら思わず顔をそむけるレベルだ。しかし作業員たちは表情を変えない。「10年もやってると、匂いで水質がわかるようになる」と高橋は言う。
垂直のハシゴを降りること約5分。地下40メートルの幹線に到達した。ヘッドライトが照らすのは、直径3.5メートルの円形トンネル。足元には膝下まで水が流れている。気温は夏でも冬でもほぼ一定の18度前後。しかし湿度は常に95%以上。息をするだけで肺が重くなる。
「新人はここで30分もすると気分が悪くなる。閉所恐怖症の人は絶対に無理。でも、ここで仕事ができる人間は、地上のどんな仕事でもできると俺は思ってる。」
02:30 —— クラック調査開始
高橋がトンネルの壁面をなぞる。指先の感覚と目視で、コンクリートの劣化状態を確認していく。肉眼ではわかりにくい微細なクラックも、指先でわかるのだという。
「このクラックは幅0.3ミリ。今すぐ問題にはならないけど、放置すると3年後には漏水する。今のうちに記録して、次の補修計画に入れる。」
高橋は専用のタブレット端末で写真を撮り、位置情報とともに記録する。この端末は防水・防爆仕様。下水道内では可燃性ガスが発生する可能性があるため、通常のスマートフォンは使用できない。
一方、後方では別の作業員がテレビカメラ(管内調査用の小型カメラ)を操作し、目視では確認できない管路の奥を映像で確認している。モニターに映る管内の映像は、まるでSF映画のワンシーンだ。
04:15 —— 応急補修
調査の結果、2箇所で即座に補修が必要な劣化が見つかった。一つは側壁のジョイント部分からの浸入水。もう一つは、天井部分のコンクリート剥離の兆候。
「天井の剥離が一番怖い。落ちてきたら頭に当たる。ヘルメットしてても、コンクリート片が数キロの重さで落ちてくるんだから。」
補修材を混合し、特殊な注入器で劣化箇所に充填する。この作業は水流がある中で行うため、通常の建設現場とは比較にならない難易度だ。材料が水で流されないよう、速乾性の特殊補修材を使用する。
05:30 —— 地上への帰還
約4時間の作業を終え、チームが地上に戻る。東の空がうっすらと明るくなり始めている。最初の通勤者がまだ駅に向かう前に、マンホールの蓋は何事もなかったかのように閉じられる。
高橋が自動販売機で缶コーヒーを買い、チームに配る。全員が無言で飲む。この沈黙は、安全に作業が完了したことへの安堵だ。
「朝、普通に水を使えること。トイレを流せること。それが当たり前だと思ってる人がほとんどだろう。でも、その『当たり前』を毎晩、誰かが地下で守ってるんだ。俺たちはその誰かだ。」
密着取材を終えて
72時間の密着取材中、チームは3つの現場を回った。合計の地下滞在時間は約14時間。その間、一度もトラブルは起きなかった。それは偶然ではない。綿密な事前準備、装備の点検、チーム内のコミュニケーション。すべてが「無事故」という結果のために設計されている。
高橋は最後にこう言った。「この仕事を知ってもらえるだけで嬉しい。でもな、知ってもらわなくても俺たちはやるよ。それが仕事だから。」
午前6時。東京の街が動き出す。何百万人もの人々が水を使い、トイレを流し、シャワーを浴びる。その水がどこを通り、誰が守っているのか——知る人は、ほとんどいない。